2012年03月12日

13歳の夏に僕は生まれた


(2005年/イタリア)
監督:マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ
出演:マッテオ・ガドラ、アレッシオ・ボーニ、ミケーラ・チェスコン、ロドルフォ・コルサート、エスター・ハザン、ヴラド・アレクサンドル・トーマ


個人的採点:80点/100点
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 『13歳の夏に僕は生まれた』は『マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ』監督による現代イタリアの移民問題を絡めて少年の成長を描くヒューマンドラマである。

 イタリアの裕福な家庭に育った『サンドロ(マッテオ・ガドラ)』は夏のある日、父と出かけたクルージングで誤って海に転落してしまう。幸いにも彼は不法移民の乗る密航船によって助けられるが、そこには彼が今まで見たことも聞いたこともない知らない世界があったのだった・・・。


 基本的には日常で移民問題を考える事がないと言っても過言ではない日本に住む私にとっては、なかなか考えさせられる作品であった。しかもイタリア人ブルジョワ階層の少年と言う、現在の一般的日本人の視点と感情的にも知識的にもほぼ同程度の感覚と言っても良いだろう視点からの作品なので、同様のテーマの作品に比べると発せられる感情的対立がそれ程大きくなく、むしろその世界を不思議なモノとして眺めている様な印象があるので、テーマの割りに観易い作品だった。

 この作品の非常に重要なキーワードである『ソキ オボタミ オコキ コミボンバ リスス テ』は『生まれたからには隠れられない』という意味だとのことだ。『サンドロ』は自分の知らない言語で話されたその言葉を数回繰り返されたからとはいえ、正確に覚えていられる聡明さ、また水泳も気持ちさえ入れば選手にすらなれると言う快活さ、そして父親の経営する工場では誰からも愛されると言う愛嬌、更には恵まれた家庭環境と、言ってみれば全てを『持っている』少年である。対する違法移民者たちは本当の意味で身一つだ。その差は大き過ぎる。漂流していたところを助け出された時の『サンドロ』は一時的に違法移民者たちと変わらぬ人間となったが、陸に戻ると再び全てを持つ少年として生まれた。今でこそ私にも世界には『持つ者』と『持たざる者』が存在することが実感として理解出来るが、13歳の少年が自分の身一つで体感するにはあまりの衝撃である。ただどうしても世界的に観れば『持つ者』側にいる私などは『サンドロ』の視点を全てに感じてしまいそうになるが、違法移民者たちの側からすれば何一つ珍しいことでもなく、それは日常の延長なのである。この作品はあくまで『サンドロ』の視点からのものなので、移民問題の問題提起としての物足りなさを感じるのも事実であった。

 『サンドロ』と違法移民の少女『アリーナ』の間には非常に大きな隔たりがあり、お互いがそれを感じながら終わるラストシーンはなかなか独特な終わり方だったと思う。もの凄くモヤっとした空気が感じられる終わり方だ。アメリカンなラストシーンに慣れている方やスッキリとした問題解決が欲しい方には向かないラストシーンだろう。しかしそれだからこそ、この作品にリアリティを感じられたのは私だけではないはずだ。何せこの手の移民・民族問題にはどんな世界であってもスッキリとした解決方法を見つけ出せていないのだから、ある意味で当然の結末である。在り来たり過ぎる感想だが、その結末がいつの日か当たり前でない世の中になって欲しいと願うしかなかった。

 ところで作品の冒頭部分でムスリム(イスラム教徒)を『回教徒』と言う日本語訳で表記しているのが気になった。別にそれを差別表現だ、と言いたい訳ではなく(『回教徒』という表現には差別的な意味合いが含まれることもある様だ)なぜ敢えて『回教徒』と言う表現を使ったのか純粋に気になったのである。あえて日本語で断絶を感じる様に表現してあるのだとしたら、少し行き過ぎだったのではないだろうか。

 『13歳の夏に僕は生まれた』は複雑な社会問題を軸に人間性と少年の成長を扱った考えさせられる作品であった。単純に楽しむだけの作品ではないが、良作である。




posted by downist at 20:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 洋画 − ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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